*レイム×ブレイク
*レイブレWebアンソロジーに与稿したものです
浮遊感が身を包んでいる。
仄青い水の世界をいつからか、気が遠くなる程前かつい今し方からなのか分からないが、兎も角沈んでいた。視界は定かではない。機能を失いつつあるこの眼が映し出せないだけかも知れなかったが、少なくとも自分の世界には何も無かった。口から零れる空気が泡となって目の前を遠ざかるが、聞こえるはずの音が聞こえない。もとより見えない事にプラスして感覚がないことが大層苦しかった。しかし不思議と肺から酸素が抜ける息苦しさは無かった。触れる物も無く所在無さ気に揺れている手で身体を抜けていく泡沫を掴む。痛みを伴わない、終わりの見えない苦しさ。何処まで行くのだろうと考えて、ひとつ思い当たる。
「これが、死か」
そうしてまた泡が一つ弾けて消えた。
よく晴れた日の午後、郊外にある教会から一台の馬車が出た。
艶のある黒い毛並みに黒いサスペンダーと手綱を付ける馬が、更に同色の装飾が施された荷台を重々しく引き闊歩していく。誰も口にせずとも解る。いわゆる霊柩車だ。
馬車が教会を出る少し前、女公爵の屋敷では常ならぬ幾分重い空気が流れていた。つい先日のこと、公が懇意にしていた老貴族が一人亡くなった。女公爵より少し年が上の好々爺と言うに相応しい人物だったのだと、ブレイクは彼女の孫娘から聞いた。
「小さい頃、よく遊んで下さったわ。私がチェインと契約してからは余り会うことはありませんでしたが」
流石に今の少女に普段のはつらつとした元気は無いようだ。声に張りがない。俯いた姿には後悔が現れていた。契約で成長が止まってからはあまり面会には行けなかったのだろう。彼女を葬儀の為の着替えに見送ると自分も正装へ着替えるため、自室へ戻った。この国では葬儀の参列者はごく少数で行われる。服装とて全身黒ずくめにする必要はない。社交場へ着てゆく正装から装飾を外しボサボサとした髪に櫛を入れた。今回ばかりは何時も肩にいる人形を連れてはいけない。
「では、行ってくるよエミリー」
ぽすんとベッドの上に行儀よく座った人形へ、軽くウィンクし部屋を出た。
「おや、来たようですネ」
遠くでガラガラと車輪の回る音がした。緑が生い茂り、木漏れ日が一面の芝を照らし美しい。これだけの光があれば僅かでも目蓋の裏に届く。そんな光景の中現れた馬車は決して陰鬱な葬儀を思わせたりはしなかっただろう。直ぐ傍にいるシャロンは黒のシンプルなドレスを身につけレースのベールを被っている。その表情は定かではないが幾分緊張しているように思えた。墓石一つ一つに色鮮やかな花が添えられた静かな墓地。男の呟きに参列者がはたと顔を上げた。女公爵と故人の遺族ら10数名は既に土を掘った場所へ集まった。それを見てシャロンはさり気なくブレイクの腕へ手を添えて引く。ブレイクの驚いた顔に、彼女は少々気恥ずかしげに、だが表情は変えず背筋を伸ばして列まで移動した。男たちの手でゆっくりと降ろされた棺の前に司祭が立ち聖書の一説を読み上げ、賛美歌・献花と続く。参列した女性たちが、手にした色とりどりの花を棺の上へと投げ入れた。ふわりふわりと舞う花びらが、参列した人々の目に優しく映る。
「おやすみなさいミスター。貴方は私の大切な友人であり、大切な家族でした」
レインズワース公の小さな言葉を最後に、棺は丁寧に土をかけられる。
そうして故人は長い眠りについた。
「…He has moved on to a better place」
「He was a very special person. We will all miss him」
「I can't imagine what you are going through…」
「If there's anything I can do to help, please let me know…」
紳士淑女からお悔みの言葉がぽつりぽつりと交わる。お国柄と言うべきか、死者を悼むのは勿論だが彼らは残された者たちへの気遣いが優先される。この葬儀もまた、遺族への慰めだ。女公爵は使いの者に車椅子を押してもらい亡くなった氏の妻や娘らへ挨拶を交わしに動いた。彼女がちらと此方へ合図を送ったのを受け取り、使用人は少女を見る。
「私たちは先に行きましょうか。お嬢様」
「…えぇ」
名残惜しげに墓標を見る少女を促し、迎えの馬車へ向った。しかしそこで思わぬ声を聞く。
「ザクス」
「レイムさん?貴方なんでここに」
「バルマ公からのお達しだ。女公爵様へ馬車を出すようにと」
場所が場所なだけに声色が固い。その命を聞いた時の彼は内心複雑というより呆れを覚えていたかもしれない。
「相も変わらず一途なことで…貴方もお気の毒に」
「でも助かりますわレイムさん」
この馬車の前にいるもう一台が女公爵の為のものだろう。恐らく断られるのだろうが。レイムが馬車を降り少女の手を引こうと動いたがブレイクも使用人の身である。それを制止して小さな手を取った。
「シャロン様は?」
「部屋で着替えて、お茶をしているでしょう。今しばらくは一人にして差し上げた方がよろしいかと」
「お前にしては、気が利くな」
「うわー、失礼しちゃいますネ本当に」
大真面目な顔で呟いた友人を嗜める。窮屈なスカーフを取りシャツの襟元を寛げながらその背の高い友人へ椅子を勧めた。ここは自分の部屋だ。同僚で長い友人である青年はブレイクとは向かいの席に座った。
「身内のような付き合いがあれば流石に堪えるでしょう」
「…そうだな」
レイムは愛用の眼鏡を取り、ポケットから出した眼鏡拭きでキュッキュと磨きだした。これは昔から考え事をする時の彼の癖だ。いつもの通り浅いが眉間に皺を寄せているのだろう。そして今日はそれが何事かを探る。少女の傷心を憂いているのか、主人の事か。それとも別の何かがあるのかと。じっと友人の、比較的整った顔立ちを見ていると眼鏡を拭く手が止まった。視線に気づいただろうか。長い指で押さえられた「それ」はなかなか本来の仕事へ戻れない。その眼鏡をじっと見つめた後、静かに此方へ向き直り口を開いた。
「…なぁザクス」
「はい。何でしょう」
「お前、目の調子はどうだ?」
来たか。そう思ったのが5割。後は2割の呆れと3割の諦めだった。
「以前とそう変わりません」
反発したところで彼が口を出さなくなる訳はない。大事はないとそう伝えた。現に問題は無いのだ。感覚が優れている分視覚を失っても、ごく普通の、慣れた場所での生活にさほどの不自由はない。勿論戦闘においても。
「そうか」
そう言い眼鏡を掛けなおした彼の表情はやはり余り良くはならなかった。レイムは立ち上がりブレイクの眼の前に立つ。何ですかと目を合わせると瞼と頬に大きな手が優しく触れた。驚きはしたが医者のような手つきに力を抜く。冷えた指先がゆるく目蓋を押し上げた。
「お前ちゃんと寝てるのか?少し充血してる」
「ねてますよ」
とは言え見えない事で無意識に目に力を入れてしまっているということはあるだろう。レイムは本人の答えも受け止めながら、此方は主に瞳から光が薄れていることに僅かならぬショックを受けていた。やがてブレイクは労わる様な、少し温まってきた心地よい指の感触に目を閉じる。と、額に軽い口付けを受けた。それは愛情というものではなくごく自然な、傷を洗い清めるようなものだった。そうして直ぐにレイムは呆けているブレイクから離れ、静かに席に戻った。しかし席に着くなり彼はまたしても眼鏡を拭きだす。照れ隠しなのだろうか。
「スマン」
「何がです?」
「……だから」
「いやぁ、どうせなら美しい女性にやって頂きたかったですネ」
「…ふん、だったらシャロン様に頼んだらどうだ」
「そんなもん、先にハリセンが飛んできます」
後の記憶にも残らないような、他愛ない談笑は夜が更けるまでゆっくりと続いた。
体が浮遊している。
また「あの夢か」と、そう思った。しかし同じではなく今度は暗くて、青さがない。最初から暗いことは、徐々に光を失われるよりも存外恐怖は感じなかった。しかし、不安だ。そう思うと脳裏にぼんやりと友人らしき人の姿が浮かんだ。目の前に浮かんだ青年は淡い茶の髪の下にある、髪と同色の瞳を細めていた。伸ばされる手へ、反射的に手を伸ばしていた。今は伸ばされる自分の白い手が何故だかはっきりと見える。見える事への違和感で僅かに震える指が青年の手にゆっくりと近づいた。
(もうすぐ―)
もう直ぐ、手が触れる。
そう確信した、その瞬間。白い指先が土気色に変わり、泥人形のようにボロボロと崩れた。
「ッ!」
思わず引いた手を胸に抱える。途端に急速な落下。前の夢よりずっと早い速度で。淡い期待と喜びは砕け、離れていく友人の影は哀しげに揺れていた。
目が開いた。
目の前には白い天井。脇には衣装棚らしき物。恐らく、自分の部屋だ。
余りにも静かな部屋に不釣合いな喘ぎ声が聞こえる。苦しげで、切羽詰ったような、もがくような声だった。それが自分の口から漏れている事に気づくには少し時間が要った。上下する胸を抑え額や首にまとわりつく汗が不快でベッドから降りた。湿ったシャツを脱ぎ、痩せた腹を手当たり次第に引き寄せたタオルで拭う。
「寝ても覚めても、…難儀なものだな」
結局あの夢は何なのだったのか。
崩れる手はもう何も手にしてはいけないという事なのだろうか。
それが、あの友人だとでも言うのだろうか。
ふとぼんやりとした視界で、テーブルにティーカップが二つあることに気がついた。
「そういえば、居たんでしたっけ」
昨晩、葬儀を終えた後に友人と茶をした記憶が蘇る。この場にいた彼は想像や夢の住人ではない。ティーカップの縁を指でなぞると、下に挟まれた布に当たり手に取った。これは自分のものではない。
「ふむ。…今日も来るということでしょうか」
今日も来る。しかし昨晩、彼を見送った覚えが無い。帰る時は必ず見送っているのだ。何があったか聞きたいが、これがある以上また来るのだろう。その辺は長い付き合いでの感だ。出向く可能性がある方へわざわざ出掛けずともいいだろう。目が覚めたのも遅めだっただろう。身支度を整え終えぬ内に彼はやってきた。少々の息切れを伴って。
「体調は?」
「ハイ?」
開口一番がそれでは自分以外の者だって困るに違いない。しかし当人の冷静だが真剣な表情に揶揄など出来るはずもない。久方ぶりに困惑していると青年の手ががっちりと顔を捉えあの晩と同じように目を覗き込んだ。顔色を窺い手首を掴かんで体温まで測っている。
「貴方何を」
「覚えてないのか?…いや、覚えていなくても構わん」
「ちょっと、何なんですか」
「咳き込んで倒れた。それだけだ」
少々棘がある。これはやってしまったかと反省し、素直に礼を言った。「その時」傍にいたのが少女ではなくこの友人だったことは運が良かったかもしれない。しかし彼とて目の事がわかった時何度も確かめられたくらいだ。相当動揺しただろう。
「シャロン様には伝えてある。後で顔を見せておけよ」
「了解しました」
話もそこそこに制服へ着替えようとクロゼットを開けると後ろから何かが頭に降りかかってきた。
「今日はそっちだ」
手に取った柔い布はいわゆる寝巻きだ。じきに仕事へ向わなければならないのに何故かといぶかしむ。それを察した彼はため息をつき、大事をとって休めと言った。咳き込むくらいでそこまでしていいのだろうか。
「私、どんな様子でした?」
「どうって」
「…血を吐いたりとか」
「……いや、それは無かった」
レイムは目を逸らした。此方に気を遣っているのか、それとも自分の為なのか。
「そうですか」
「貴方は本当に嘘をつくのが下手ですね」
びくりと彼の緊張が揺れる。咄嗟の動揺を隠せていない辺り、彼はまだまだ青い。にやりと笑った私の前で、彼は今日2度目のため息をついた。彼はシャロンにどこまで伝えたのだろうか。
「…適わんな」
「100年早いですヨ」
「笑うな」
「笑いますよ」
もう可愛くって仕方がない。恨めしげに此方を見る彼が愛おしい。自分を省みずに他人を気遣う彼が愛おしい。彼はきっとこの世の最大の未練になるだろう。手を離すなんて、そんな事を考えられる筈がない。
「何度も言いますが元より私は相当なお爺さんですヨ、そんなに毎度動揺しないで下さい」
「見た目が若いんだから仕方なかろう…と言うか年は関係ない」
嘘をつくのが下手な上に相当なお人よしでもある。この先の長い彼の人生の方が心配になる。
「…保護者みたいに見るなよ」
「あれ、バレマシタカ」
「私がお前の保護者みたいなものだろう」
「ちょ、…」
「いいからシャロン様に顔を見せて来い」
レイムにとってブレイクのような友人は他に類を見ない珍しさだった。年上のくせに妙に子どもっぽく、子どもっぽいくせに自分に厳しく他人を気遣う大人だった。それは此方の意図を読み取った上での行動が多い。だから自分を対等に扱って欲しいと願ってしまう。年上だから、この先が短いと知っているからと勝手に突き放さないで欲しいのだ。
「気をつけろよ」
「…流石に屋敷内は問題ないですよ」
拗ねた様な顔で部屋を出る彼をしっしと見送り制服をクロゼットに戻す。ティーカップをも片付けてしまおう。昨日の内に洗ってしまえばよかったと思いながら昨日の葬儀を思い出した。
黒い正装に身を包んだ彼が埋葬される棺を見ている。その顔は穏やかで、故人を悼むというよりはその目にいつか来る自分の姿を映しているように見えた。そんな友人の姿をなんとも思わない筈が無い。彼はまだ自分の為に自分の時間を使うべきだ。もっと他の世界を知るべきだ。しかし、彼の目は
「…。見えないんだったな」
またしてもため息が出た。いつか彼が言った、自分と同じ世界を見るなら眼鏡を外してみろと。感覚としては近いかもしれないがこちらは見える手段がある。それでも近づけるのか。そもそも彼が眼鏡を掛けた事などないだろうに。
眼鏡を外した。
部屋を見渡してもよく解らない。気持ちは同じに出来なくとも、彼の世界はこんな感じなのだろうか?ベッドらしきものが目に入るが確証が持てない。やはり不安が拭えることはないらしい。
「…いっ!」
ゴッという鈍い音を立て、机に足をぶつけた。痛みに思わずうずくまる。そういえば彼のそんな姿は見たことが無い。身体能力の差だろうが、何か悔しい。涙目で彷徨う私を見たら彼は笑うかもしれない。
はっきりと色に差のある物以外は相当曖昧だ。前方に手を伸ばしかつて自分が彼にしたように、触れた物の形状をなぞっていった。大きくて白いこれは布団か枕か。ボスボスと触って枕と確認する。眼鏡を机に置いてきていたので動くのが億劫になってしまった。柔らかいベッドであることを確かめて座る。ぼうっと見上げる姿はまさしく数日前の「彼」だった。朝日を受けた白が光を拡散させて少々目にしみる。
ぼやけた世界に彼の姿が重なる。髪が長い。出会ったばかりの、ケビン・レグナードの姿だ。あれから随分長い時間が経ってしまった。まだ幼い自分をよく邪険にしていたことさえ今は笑って話せる話の一つだ。
「…遅いな」
主の帰らぬ部屋で天井を見上げるうち眠気が襲ってきた。「彼女」にブレイクが血を吐いた事は伝えていない。事実を伝えるべきだろうが今日ばかりは日が良くなかったので伝えなかった。自分もかなり動揺していたのだ。もう居なくなってしまうのかと、不安に苛まれた。いつか自分も彼女に叱られるのだろう。そう思うと、何だか自然と顔がにやけた。大事にしたいと思うと結局ブレイクの行動をそのままなぞってしまっている。
「なーに人のベッドで寝てんですか」
首を起こすと戸口に人影が見えた。姿は見えないが声を聞けば間違いない。
「あぁ…悪い、眼鏡を取ってくれるか」
「眼鏡?」
「お前に頼むのも悪いが、テーブルの上にある」
ブレイクがテーブルへ手を滑らすと無造作に置かれた眼鏡があった。やれやれと苦笑してレイムの元へ歩み寄る。
「ほら、目を閉じて」
「自分でやる」
「いいから」
「お前も見えないだろうが」
手を出してくるのを無視し、大人しく目を閉じたところでゆっくりと確かめながら耳へ眼鏡を通した。
「……どうでした?」
試したのでしょう。
「ん。まぁ、良くはない」
「ぶっ、当たり前でしょう」
哀しい事は誰しもにあるが喜ばしいことなどある筈がない。あるとしても、それは私にだけだ。
「そうだな」
目の前にはいつもの風景が見えていた。笑う友人の顔を見てどちらも口元が緩んでいた。
「何処かにぶつかったりは?」
「机に足をぶつけたな」
「私はそうなりませんねぇ。褒めていいんですヨ」
「いいからお前は寝ろ」
レイムは立ち上がって目の前の友人をベッドへ押しやった。優しくしてとふざける彼へ少々乱雑にシーツを被せる。さっさと寝て、さっさと全快しろと。
「寝たくないのですが」
「子どもみたいなこと言うな。目を閉じてればいつかは寝る」
「…夢を見るんですよ」
「…どんな?」
「ひたすらに沈んでいく夢ですよ。あんなモン見たら死期が近いとしか」
「誰だって夢は見る。何時かは死ぬ。でも、お前も私も今ではない」
「私の可能性は高いじゃないですか」
「では沈む夢ではなく降りてくる夢だと思っておけ」
「降りる?」
「空から地上に。だったらそれはこの先をまだ生きる意味になる」
「…なるほど」
根拠の無い、稚拙な屁理屈だ。それはブレイクとて承知である。彼もまた確実にあれが水の中であったことを言えずにいる。水底の土では、腐敗していく他にない。
「では、君に良い解釈を聞いたので寝るとしましょうか」
「ザクス」
「はい」
「明日は仕事だ、遅刻するなよ。必ず時間に起きろ」
「んー、ちょっと無理かもしれないんでレイムさん起こしてくださいヨ」
目が合った。言葉遊びには裏がある。長い付き合いだ、赤い目が訴えるものに気づかないはずはない。
「起こし方に文句は言わせんぞ」
「え、ちょっとそれどういう意味で」
「起きなかったら覚悟しておけ、という意味だ」
「…ハイハイ、了解でーす」
「嬉しそうにするなバカ者」
ブレイクを背にして部屋を出る。先日死者を弔ったばかりのレインズワース家は穏やかに静かだった。目の前に広げた己の手の平が筋までよく見える。館内もよく見える。ガラス越しだが確かに見えている。
「……」
廊下のガラスの向こうは曇りだし、しとしとと雨が降り出していた。
唯一の赤い光を失ったら彼は何もかも白くなる。目を閉じてしまえば、髪も肌も衣服でさえ真っ白だ。溶けて消えるような軟な男ではない。しかし分かっていても理性ではどうにも出来ない問題だった。この場を離れたくはないが、自分は帰らねば。今この場に留まってもどこまで手を伸ばして良いのか分からない。ならば、帰るべき場所に行かねばならない。まだここに彼が居る限りいつでも手を差し出せるのだ。もう自分は彼に会ったばかりのような、非力な子どもではないのだから。
目を閉じた世界で、降り出した雨の音を聞いていた。
まだ睡眠に入った訳ではない。目を開ければ天井が見えた。規則正しいリズムで土へ落ちる音と、外壁に溜まり不規則にぱたたっと落ちていく水滴の音がしている。彼らはこれからどうなるのだろう。落ちた場所で果たす役割も違うだろう。
ならば自分は。
自分が偶然この時代に落ちてきた事は幸運だっただろう。人としてはそれなりに長い間、幸福な生活をしてきた。主人である少女や、あの友人には恩がある。彼らはそんなもの要らないと言うだろうが。
どこまでそれを考えていいのだろうか?
どこまで考えたら怒られてしまうのだろうか?
元気でいてくれたらいいなんて言われても、もはや自分に叶えられる事ではない。のんびりしていたら沢山のやり残しが出来てしまう。それだけは嫌だった。
「あーぁ…ッ」
前触れのない胸の息苦しさに一人咽る。頭が痛い。風邪でもひいたか。そう思ってすぐ、残念ながら違うと教えられる。口の中に鉄の味が広がっていた。
(いやだなぁ、全く)
はーっと息を吐いてレイムの出て行った扉を見た。もう外にはいないだろうか。自然と降りてくる目蓋をそのままに、世界を黒へ変えてゆく。葬儀で散った花のように鮮やかな世界はもう戻らない。あの夢で崩れた手を、君は拾い集めるのだろうか。望んではいけない事を秘めながら、意識は水音ともに遠のき、水の底へと沈んでゆく。
「おやすみ、レイム」
もう少しだけ、自分の力で君の隣を歩きたかった。
「水葬」了
- 2012/04/25(水) 22:39:23|
- レイブレ|
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