4「泣いたりはしない」
動きたいのに動けないこと。
言いたいのに言えないことがある。
これもそんな日常の一つだ。
彼の携帯番号を眺め、ため息をつく。
結局連絡はしていない。出来なかったのだ。いずれ見えなくなってしまうのなら会ったほうがいい。恐らく彼にとっても。しかしそれは見えなくなってしまう事を受け入れることであり、先が無いことを実感させられてしまう。それを嫌だと思うのは単なる悪あがきだろうか。
「…すまない」
時折携帯に通話連絡があったが、一度も出ていない。
それでも近頃はメールになり、此方を気遣っているのか1週間、2週間と間を空けて届いている。ただし、すべて未読だ。心配を掛けたくないのに見るのが怖い。気を遣われるのが怖いと感じる。一時浮ついた心は見事に沈み、気づけば手首には傷が出来ていた。
世界が少しだけ小さくなった。
自分の髪色より少し明るい、白い建物が暫くの生活空間。しいて言えば庭の緑。そして今は見える外の世界。自傷的な行為こそすれど頭は明瞭で冴え渡っていた。しかし外の人間はそれを正気と呼ばない。
私は短期の入院を勧められた。
退屈な日常が戻ってきた。
鞄の中の携帯は電源が切れている。病院だから、という訳ではなくもう何日も前から電源が切れたままだ。それでも持ち歩いているのは未練かもしれない。
「調子はどうだ?」
ぼうっとしていると白衣を着た赤毛の男が入ってきた。一応「主治医」だ。しかしこの男は大学でも見たことがある。何の腐れ縁か、確か客員教授だったはずだ。
「誰も見舞いに来ないが、友達の一人もいないのかお前は」
「別に」
「あの背の高い茶髪は違うのか?」
「…いいんですよ、別に。…って何で知ってるんです」
一度大学の見学として案内をしたことはあるが、本当にその一度だけだ。医師はやれやれとため息をついた。そしてカルテを眺め、事も無げに呟く。
「入試で面接をした。そう言えばその学生、来年担当のクラスに入るな」
「…え」
思わず顔を上げてしまった。にやりとした顔に咄嗟に顔を背けた。
「何時でもそいつと話す機会はある訳だが」
「私のことは黙っておいて下さい」
「…なるほど」
何を納得したのか、医師の男はさり気なく腕の傷を確認して部屋を出て行った。
傷は前より増えていた。
「―ゲホッゲホッ」
肺が苦しい。咽るたびに口内に広がる鉄臭にもそろそろ嫌気がさして来た。
自分の中でもう治すという気持ちも無いせいか、入院生活は期限のたびに延期されていった。一年も経つと体重が5kg落ちていたという始末だ。短く切った髪も肩に付きそうな長さまで伸びてきている。また切ろうか。そう考えるも髪を伸ばすと何となく彼を思い出せる気がしてしまい、なかなか切れなかった。
「大分見えなくなってきたか…?」
意識して辺りを見回すと幾分輪郭のはっきりしないものがある。本人としては日々少しずつ変化する程度では進行に気づかない。時々思い出しては遠くを見たり、近くを見たりした。そしてその度に気分は下がった。このままでは本当に、再会出来ぬまま光を失ってしまう。
「……っ」
じわりと額に汗が浮かぶ。手がゆっくりと、洗面台の剃刀に伸びた。
コンコン。
遠慮がちなノックの音。病院のスタッフではない。慌ててベッドに戻り平静を繕った。
「どうぞ」
ゆっくりと開く扉に何故だか緊張する。
そしてゆっくりと見え始めた訪問者の顔に、本当に息が止まりかけた。
「…レイム!」
「お前、…この馬鹿今までどうしてたんだ!」
場所が場所なので声を抑えているのだろうが、気迫は十分だった。これは、相当怒らせたようだ。当たり前の事だ。そしてそれが当たり前になっているいつもの彼に口元が緩み始めた。
「…何笑ってるんだ。こっちがどれだけ」
「ふふ、スミマセン。あぁでも…本当に、ありがとう…」
レイムが驚いた顔をしている。これも当たり前の事で、私は泣いていた。
ベッドの脇に来た彼の衣服を引っ張り顔を埋める。涙が止まらなくて、どうしたらいいのか分からない。蹲ったままどうしようも無くて動けずにいると、背中に暖かい感触がした。
「痩せたな、お前。もっと食べろよ」
「おかげさまで…もう、大変でしたよ」
「メールは見たか?」
「…すみません」
「まぁ、いいさ。でも後で見てくれ」
優しいため息が耳元をくすぐった。
そして何時までも抱きついている事に気づいて慌てて体を離した。
「何だ、残念」
「…は?」
「じゃあ、ちょっと外に出て電話してくるから…メール見ろよ」
眼鏡を掛けなおしながら、彼は笑った。改めて姿を見ると紺のコートを羽織っている。いつの間にかそんな季節になっていたのか。呆けている内に彼はまた扉の向こうへと消えた。目元を袖で拭い、仕方ないので携帯と充電器を取り出し繋げた。少し前に作った眼鏡をかけて暫く待って電源をつけると、見た事のない数のメールが溜まっていた。
『今どこにいる?』
『大学受かったぞ。いいから早く返信してこい』
『下らないことでヘコんでたりしないだろうな』
『…何かあったのか?』
「…おやおや」
短い文ばかりだ。それでも愛情や労わりを感じるのは盲目的だろうか。口が小さく開いたまま閉じれない。乾いていく喉とは裏腹に、再び目蓋が濡れた。ぽちぽちと地味な作業で一つ一つ読んでいく。1年開いていなかった携帯には返事が無いことを責めるものは無かった。ただ気にかけている、そんな感じだ。何処まで人が良いのかと此方が頭を抱えてしまいたくなる。
次が最後のメールだ。
『言いたい事がある。メール見たら連絡くれ』
「……」
そう言えば、先ほど彼は誰に連絡をしに出て行ったのだろう。
何か背中を押されるような気持ちで、私は彼の電話番号を引っ張り出した。
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- 2011/11/22(火) 01:52:38|
- レイブレ|
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